一年前に人生の恩人がなくなった。
20数年前、僕が鹿児島に住んでいた頃に出会ったシンガーソングライターの伝兵衛さん。フォークでもジャズでもブルーズでもない、いや、それらひっくるめて全部正解という文句無しに痛快な音楽をやっていた人だ。自分の単独ライブをNHKホールでやったり、スティーブガッドと村上PONTA秀一のツインドラムで地方公演を興行するようなぶっ飛んだ人でもあった。
伝兵衛さんに出会った頃の僕は放送局で働いていた。僕は小さなライブハウスを地道に演奏ツアーで廻っている凄腕のミュージシャンたちが大好きだったので、自分の担当する番組に出てもらって告知したり、チケットを預かって売ったりしていた。だから自然と伝兵衛さんとも近くなっていった。
僕は当時25歳を過ぎていてCMやイベント音楽でも報酬をもらうようになっていたのだが、テレビやCMの仕事を続けるかどうか迷っていた。たくさんのお酒を毎晩飲みながらグダグダ迷っていた。BLUES BARの名門 T-BONEで飲んでいた深夜にそのひと「伝兵衛さん」はふらっと現れた。伝兵衛さんはギターを出して言った。「ジョージア、Gでやれる?」少しセッションして、いろいろ話すことになった。
僕は切り出した。
「実は僕、迷っているんです、このままでいいのか。」
世界中の「二十代終わりかけの男」がボヤくお決まりの、面白くともなんともない、あのよくある悩み、、を、「うんうん」と一通り聴いてくれた伝兵衛さんは、決してバカにせず、誠実にカッコよく言ってのけた。
「お前の気持ちは もう決まってるんだろ?」
あの日から1年後、僕は東京に住んでいた。YAMAHAのR&Dを紹介してもらって開発中のシンセの音色プログラミングをして生活費を補い、先輩のミュージシャンに会ったりライブをする日々が続いていた。うっすら未来は見えていたが、これが本当にやりたかった世界?と漠然としたイライラも抱えていた。そこへ電話が来た。伝兵衛さんからだった。
「今日、いや明日でもいいけど、遊びにこない?」
翌日湘南へ遊びに行ったのだが、ちょっと演奏してすぐ止め、伝兵衛さんは小さな手帳を開いて言った。
「来週から、なにしてるの?ツアーいこうよ。」
ボストンのバークリー音大から帰ってきたばかりのギタリスト濱中祐司が仕切って、愛知の天才ドラマー 藤田康正、大磯ロングビーチのストレンジフルーツでフリージャズに傾倒していたコントラバシストの石井康二が土台を固めるバンド。ジャズのようなフォーマットでサイズフリーなインタープレイが繰り広げられ「何をやっても大丈夫」な歌ものバンドが「見たこともないようなヘンテコな店」で演奏するツアーは最高に魅力的だった。
それから数年の激しいツアー、星の数ほどある珍道中を経て 、当時PONTA BOXで売れに売れていたポンタさん、佐山さんをゲストに迎えたアルバムを製作し、そのお披露目ツアーまでが僕の正式な在籍期間だ。僕は自己流のピアノで、得意不得意も激しく、手も足も出ない場面もあったのだが、伝兵衛さんが使い続けてくれたのはひとえに「T-BONEの本山さんの紹介だから」だったと、後に知ることとなる。 これを思うと今でも背筋がピンと伸びる。
98年頃に伝兵衛さんのバンドを離れたのは佐山さんの計らいだった。「種子田にいろんな仕事をさせたほうがいい」と言ってくれて、「伊藤多喜雄さんのバンドでキーボーディストを探しているから暫くやらせよう」と送り出したのだ。僕は伝兵衛さんと共演するスケジュールを組めなくなり、佐山さんがほとんど伝兵衛さん専属で弾くようになった。「これ逆やないんか?(種子田がこっちで、俺が向こうやろ)がはは」と笑っていた。
伊藤多喜雄さんのセッションフォーマットはピアニストの佐藤允彦さんのアイディア(ランドゥーガ)が礎になっていた。歴代ピアニストは
竹田裕美子、江草啓太、木住野佳子、佐山雅弘、まだ学生だった林正樹が入ってきたりと名手揃い。僕はやっとそこで譜面が読めるようになり、ゲストの坂田明さんや、森山良子さん、小椋佳さん、ポンタさん、二葉百合子さん他、ミュージカルなどもやったりしてようやく自分に欠けていた「仕事のやり方」を少しずつ覚えたのだ。
伝兵衛さんとは、かれこれ10年間くらい連絡をとっていなかったと思う。
バンドマンは30歳半ばを境にメジャーなツアーで雇われる機会が減ってくる。(多くのバンドマンがこの年頃に音楽をリタイヤする)。僕は心身のバランスを崩した。CM音楽の納期を守れなかったり、本番なのに起き上がれなくてドタキャン、過度の飲酒と、いま書いていても恥ずかしく、情けないことがたくさんあった。
伝兵衛さんからまた電話が来たのは、まさにそのときだ。
「ひさしぶりたねちゃん、来週なにしてんの、なんかやろうよ」
音符を見失ってバラバラになっている僕を、伝兵衛さんは時々ツアーに引っ張り出しては黙って見守ってくれた。ポンタさんとのトリオでは大失敗もしたのにそれでも呼んでくれて。大ファンの近藤房之助さんとも何度か共演の機会をもらった。生き返る薬のようだった。
その後、僕は自分のソロアルバムを濱中祐司、ポンタさん、チェロの蒲谷くんに力を借りて作ることになった。いずれも伝兵衛さんのバンドで巡り合った知己であり輝ける才能の塊だ。みんな独り立ちして凄腕、もはやベテラン世代。先日共演した成瀬明くんも素晴らしい才能を開花させていて皆頼もしい限りだ。
伝兵衛さんを20数年支えた女房役である石井康二さんとは今年デュオで新作アルバムCDを作ることができた。一緒にツアーも廻った。何をどう弾いても縦横無尽なコントラバスで支えてみせる石井さん。プレイはもちろんのこと人柄の素晴らしさに触れるにつれ、知れば知るほど、まさに伝兵衛さんが石井さんを手放さなかった理由(わけ)を思い知らされる。
長々と書いたが、伝兵衛さんへ感謝の気持ちを一度は書き残さなくてはと思いブログに向かってみた。
上手く書けたとも思わないけれど、
これが僕のなかの等身体の「恩人」伝兵衛さんだ。
伝兵衛さん心からありがとうございます。
正直いってあなたがいなければ、
僕の人生には何も起こらなかった。
悔いのないよう、これから生きている時間のすべてを
音楽に捧げたいと思います。